静かな絶望と苦しみの果てに

機能不全家庭に育つ。子供の頃は怯え、大人になった今は虚無感・空虚感・ 世間とのズレに苦しむ、そんな日々を綴る。

機能不全家族の団欒

私の父は酒を飲まない為、定時に仕事が終わると真っ直ぐ家に帰ってくる。そして家族全員で夕飯を食べる事にやたらと拘るのであった。

小学校に上がる前から父と確執があった私は、小6にして白けきっていた。しかしそんな私の気持ちを知る由もなく、父は事あるごとに家族団欒を強調するのである。


私はそれがアホらしくて仕方なかった。ある日の夜「家族団欒の食事」が終わった後、私だけさっさと自室に行こうとした。すると父は私の事を「変わり者」と罵り「家族団欒」を持ち出して居間に縛り付けたのである。

私は食事をしている時から面白くも何ともなく、温かい心の交流など何一つないのである。食事が終われば茶の間に居座る意味は皆無である。それどころか父にどんな難癖を付けられて詰められるか分かったものではない。

だからさっさと自室に行こうとするのだが、そんな私を呼び止めて「家族団欒がいかに大切か」を私に説き始めるのである。

このように実質的な心の交流や触れ合いよりもカタチが大切だったのだろう。いや、もっと正確に言えば、父は私の気持ちに全く気付いてなかったのである。

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私はその後「家族団欒」という言葉に欺瞞と憎しみを覚える大人に成長した。しかし成長し、あの忌まわしき家を出た後、温かい「他人」に触れ合った事で「団欒」とはこんなに良いものだと知ったのである。当然「団欒」は強制される事でもなければ毎日決まった時間に行われる「儀式」でもない。

お互いがお互いを大切に思い、心の底から楽しいひとときを過ごす為に、忙しい時間を割いて一緒に過ごす事を「団欒」と言うのである。

「家族団欒」に欺瞞と憎しみを覚える…、どう育てはこんな事になるのか、当の私が不思議に感じるくらいであるが、機能不全家族とはまさに私の家族の事を言うのであろう。今考えても恐ろしい。

こんな異常な家庭に育った事が心底悔やまれるのだが、当時の私にはどうする事も出来なかったのである。