静かな絶望と苦しみの果てに

機能不全家庭に育つ。子供の頃は怯え、大人になった今は虚無感・空虚感・ 世間とのズレに苦しむ、そんな日々を綴る。

機能不全家族のレクリエーション

昨日、ある仲間たちとボーリングをした。

ボーリングはレクリエーションである。
レクリエーションをウィキペディアで調べると「気晴らし、娯楽、余暇、レジャーなど」とある。

 

それは仲間たちと楽しい時間を過ごし、親交を深め、日頃のストレスを発散する為のものである。私のスコアは及第点と言ったところだったが、しかしレクリエーションとしてのボーリングは十分楽しめた。

このところ死にたさや空虚感、親に対する怒りなどのネガティブな感情に苦しんでいた。なので仲間と会ってボーリングする予定があることを何日も前から楽しみにしていた。そして実際にプレイするとあっという間に時間は流れ、本当に楽しいひとときとなった。

ストライク、ガーター、スペアに一喜一憂し、互いのスコアを見比べてまた一喜一憂する。スコアがあるから互いに競争することになるが、勝っても負けても楽しい時間を過ごすことが出来る。ボーリングは手軽で簡単な素晴らしいレクリエーションである。

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ピンに向かってボールを投げながら、ふと20年以上前の事を思い出した。私が高校生の頃、家族でボーリングに行ったときのことである。

それまでに何度かボーリングに行っていたが、兄弟3人とも下手くそのままだった。今回も実力は変わらず、何度もガーターになったりで苦戦を強いられていた。

長男の私と次男は上手く出来ないことですっかりやる気を無くし、ふて腐れていた。ボーリングは「たかがレクリエーション」であるが、私と次男にとっては「されど勝負事」であった。
勝負事である以上「気晴らし、娯楽、余暇、レジャー」ではない。それは男としての甲斐性の有無であり、面子が立つ・立たないであり、人間としての出来・不出来を賭けた闘いなのである。

無様なスコアが並ぶことで自信とやる気を無くす2人。
レクリエーションで勝ったの負けたのを真剣に気にすること自体、そもそもおかしい。何度も引用するが、レクリエーションである以上「気晴らし、娯楽、余暇、レジャー」である。勝とうが負けようがそんなことはどうだっていい。むしろみんなと楽しい時間を過ごせるか、ストレスが発散できたか、である。

しかし機能不全家族では全てが勝ち負けになる。勝てば父に認められ精神的安全を保障されるが、負ければ何を言われるか分からない。
ボーリングの勝ち負けで人間の価値が決まるわけではないが、父から「こんなことも出来ないのか」と断罪されるのである。こうなると、もはやレクリエーションではない。一投一投が自分の価値を決めるのだから。

機能不全家族の歪みは主に長男の私と次男に現れた。三男は父から「遠い」のでほとんど影響を受けておらず歪みが少ない。なので三男だけは「楽しむ」ことが出来た。のびのびとプレイするからスコアも良いのである。私と次男が打ちひしがれたのは言うまでもない。

その後、大学時代に友達2人とボーリングに行ったときに驚いた。その2人は全く勝ち負けにこだわっていなかったのである。
「こんな世界があるんだ」と驚くと共に安堵したことを思い出す。

昨日のボーリングも楽しさと喜び、そして仲間といることに安堵した。

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…ふと思い出した、かつて私が過ごした環境。
まともな家族の中で育った人には信じられないと思うが、当時の私と次男はそんな地獄にいたのである。
機能不全家族の歪んだ世界…、今考えると本当に恐ろしい。