静かな絶望と苦しみの果てに

機能不全家庭に育つ。子供の頃は怯え、大人になった今は虚無感・空虚感・ 世間とのズレに苦しむ、そんな日々を綴る。

客観性の無さと自我の未確立で苦労した大学時代

実家から遠く離れた大学に入った私は、程無くして途方に暮れた。

思春期と言われる時期に苦悩し行動する事なく、友人Mと共依存的に過ごした為、自分というものが無い人間になっていたのである。

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私はMとは別の高校に進学したが生活圏が同じだったので、小・中同様にMに依存しきった生活を送っていた。

しかしそれは自立心を形成する事なく歳をとるという事であった。Mと過ごした日々は本当に楽しかったので今でも全く後悔してはいない。共依存的な関係とはいえ心底楽しい時間を過ごせた事に感謝しているのである。あの時に戻れるなら戻りたい…、今でもそう思う事がある。

しかしそんなMとの関係も、自立心や自我の発達の面から見れば最悪だった。Mから離れて程無くして、私は途方に暮れたのである。

私は大学に入って初めて自分自身と向き合う事になった。通常、自分と向き合うのは思春期の中高時代だが、私はその時に自分と向き合わなかった。そしてMと別れて初めて、Mがいない自分がいかに無力で冴えないかを理解したのである。

基本的な人間関係の築き方が分からないから友達付き合いが分からない。従って異性とも付き合えない…、その生活は惨めであった。

また、Mの威光に浴し自分を客観視する事を避けてきた私は、自分と他人を客観視し、それを人間関係の中で活かせない大学生になっていた。

若い頃の私は生きる上で必要なものをたくさん欠いていたが、中でも客観性を大きく欠いていたように思う。

他人にある物事を説明するにせよ自分の希望を伝えるにせよ、客観性の有無が大きな問題になる。話し方や説明の仕方ひとつとっても相手に分かりやすいよう理路整然と話す必要があるが、当時の私は頭に浮かぶ言葉を闇雲に発するように話していたのである。

よく「主語は?」と聞き返されて嫌な思いをしたが、聞いている方からすれば話が分かりにくくてイライラしたからそう聞くしかなかったのだと思う。
また、話しているうちに何を話しているかが分からなくなる事もあった。全体を俯瞰せずに話すからそうなるのだか、これもなかなか直らなくて困り果てた。

客観性が無くて困るのは対人関係だけではない。服装をはじめとして、様々な選択のひとつひとつがおかしな事になるのである。

従って日常生活は悪くなる一方である。しかし客観性が無いが故に自分の服装や発言がおかしい事に気付けず改善しようがない…。この滑稽かつ悲惨なループから抜け出る事は困難を極めた。

私の大学時代はこうして幕を開け、客観性が身につかず自我も確立せずに終わってしまった。
そんな私だったから、今の若い人たちを見ると本当に立派だと感心してしまう。例外はいるとしても、総じて彼らは自分を客観視しておりスマートに生きているように見える。彼らはネットによる情報社会と就職難の世相によって相当鍛えられているに違いない。若い頃の私の客観性の無さに比べると物事の見方が理性的・客観的な気がするし、様々な物事をソツなくこなしているように見えて仕方がないのである。

いや、もしかしたらソツなくこなせなかったのは同世代で私だけだったのかも知れない。
とにかく私は大学生時代、客観性の無さと自我の未確立で困窮していた。しかしそんな事には気が付かず、ただ生き苦しさの中で喘いでいたのである。

私が心理学関連の本を読み漁り、自分の置かれた状況を知るのは大学を卒業してからの事であった。