「私の人生」と「あなたの人生」 その絶望的断絶について
私は関東の田舎で大学時代を過ごしたが、その頃は暗澹たる気持ちを抱いて日々を過ごしていた。
高校までは共依存の友人Mと常に一緒に居たお陰で、人生の諸問題に向き合わずに済んでいた。彼は勉強やスポーツはもちろんの事、美術や音楽といった芸術・文化にまで高い能力を示し、当時の私にとって宗教の教祖のごとく神々しいカリスマであった。
しかし大学入学でMと離れた事で、私は急に人生の諸問題と向き合わざるを得ない状況になった。それから苦悩と絶望に苛まされる日々が始まった。
また、大学時代は人生の中で最も楽しい時期のひとつであり、この時期に色んな意味で悔いなく過ごすべきという思いが私を焦らせた。しかし当時の私は人生を楽しむ技術を持ち合わせていなかった。それもこれも人生の諸問題から逃げ回り、心の問題を山積みにしていた自分に責任があるのだが、自分の心にどう向き合えばよいかが皆目検討が付かないのである。そもそも自分の心に問題があるとさえ思いもしなかったのである。
だが、容赦無く苦しさと生きづらさが私を責め苛む。それは対人恐怖や倦怠感・虚無感となって現れ、私の生活に立ちはだかった。
そんなある日、いつもの如く苦悩しながら自転車でフラついていた。物憂い曇天と疲れた心が同調し、実に暗澹たる気持ちだった。進路もはっきりしなければやりたい事も無く、更には対人恐怖で異性との付き合いもままならないという閉塞感。そしてこのまま人生の諸問題が解決しないで生きる事になりそうな未来に打ちひしがれていた。
今でも鮮明に覚えている。無気力に自転車を漕ぎながら、ある曲がり角を曲がったときの事であった。正面から自転車に乗った女子高生3人組がこちらに向かってきたのだ。
彼女らは皆、綺麗で、そのうえ屈託なく光り輝いていた。
若くて綺麗な女に遭遇すると卑屈にオドオドするのが当時の常であったが、その時はそんな感情よりも先に、もっと黒い絶望に襲われた。
「自分がこんなに苦しんでいても、『他人』にとっては全く関係無い事で、全く別の世界が広がっているんだ」と。
こんな当たり前の事に気が付いてハッとした。しかし若き日の私には人生の恐ろしさを唐突に突き付けられた事で目の前が暗転するほどの衝撃であった。「私の人生」と「あなたの人生」…そこには絶望的な断絶があるのだ。
「若くて綺麗な女」を前にしているにも関わらず、もはや卑屈になるどころの話ではなかった。
田舎だから詰まらないのではない、曇り空だから詰まらないのではない、全ては個人が持つ資質次第で楽しくもなり詰まらなくもなるのだ。そして私には、決定的にその資質が無い気がしたのである…!
今にも生の灯火が消えそうになり、人生に呪われているかのような自分。しかしそのすぐ近くには生の希望に満ち溢れ、無限の可能性に祝福されている女子高生たち。
今、思い返せば当時の私だって若かった。可能性という意味では今よりもあったに違いない。しかし今、人生の折り返しを迎えつつある私と当時の私のどちらが絶望していたかと言えば、間違いなく当時の私のほうが絶望していたのだ。
この一件は本当に衝撃的だった。一瞬の出来事であったが、人生の厳然たる事実を鋭く突き付けられ、頭がグラグラしたのを今でも鮮明に覚えている。