静かな絶望と苦しみの果てに

機能不全家庭に育つ。子供の頃は怯え、大人になった今は虚無感・空虚感・ 世間とのズレに苦しむ、そんな日々を綴る。

「生まれて、すみません」か「よくも生んでくれたな」か?

「生まれて、すみません」は太宰治の言葉だが、私は「よくも生んでくれたな」と言いたくなるときがある。

「生まれてきたくなかった」「どうして僕を生んだのか」から一歩進んで「出産は悪である」と言わなければ気が済まなかった。出産について何も考えたことがなかった人、子供は欲しいけど生まれてくる子供の気持ちを考えたことがなかった人にも一度この問題を考えてほしかった。本当に子供を生んでいいんですか?生まれてくる子供が喜ぶとでも思っているのですか?出産はあなたのエゴじゃないんですか?

出産は悪である - きょむ日記

来る日も来る日も生きるのが辛くて仕方が無いから「生まれてきたくなかった」となる。

恐怖と苦痛を考えると簡単には死ねないから仕方無く生きているだけの事である。
もちろん食事が美味しいと感じる事はある。景色を見て癒される事もある。音楽を聴いて感動する事もある。

だがそれはほんの一瞬の煌めきでしかない。生の苦しみを根本から解決する事とは全く異質である。私の人生は陰鬱な気分が支配的なのである。

「コスパ」とか「帳尻」という観点では完全にマイナスでしかない。卑近な例を持ち出せば、出ないパチンコ台に延々と座り続けているようなものである。たまにはチンジャラと出る。しかし焼け石に水。そんなものは何の足しにもならない。トータルで見れば大幅に負け越しているのだから。

パチンコなら周りの誰もがやめるように忠告してくるが、これが人生となると、あくまで生き伸びるべきだという論調ばかりになるから不思議である。
「生きてて良い事もあるでしょ」いやいや、それは「チンジャラ」でしかないし「焼け石に水の喜び」でしかないから苦しいわけで。

その程度の喜びでは苦痛だらけの人生を生きるモチベーションにはならないと言いかけて、いつも言葉を飲み込んでしまう。

どうせ解ってもらえない、静かな絶望。
やがてうんざりして閉口するのが常である。

僕の自殺を非難し、あくまでも生き伸びるべきであった、と僕になんの助力も与えず口先だけで、したり顔に批判するひとは、陛下に菓物屋をおひらきなさるよう平気でおすすめ出来るほどの大偉人にちがいございませぬ。

太宰治「斜陽」 直治の遺書 より

 「あくまで生き伸びるべき論」は無関心からか、自分の生がそれほど苦しく無いからか、それとも道徳律からか、宗教心からか、世間体からか、社会秩序を維持したいからか…。

どれだって良いのだけれど、これらのいずれか、あるいは複数からこの忌まわしき「べき論」が生成されている事に間違いはない。
そして「あくまで生き伸びるべき論」のなかに「心底あなたに生きていて欲しい」という温かなメッセージを見い出せた事がただの一度も無いのである。

日々生きる事自体の苦しさと世間の無理解・無関心。故にこの世は生きるに値しないという気持ちになる。また、更に追い打ちをかけるように「生んでくれた親に感謝しろ」とまで言われるから、いよいよ世間との断絶は深まるばかりである。

価値観の多様化が叫ばれる割にはこの程度の理屈さえ解ってもらえない。だから自殺者は勝手に死ぬのだろう「お前らには付き合い切れない」と。

話はすっかり自殺の是非になってしまったが、件の記事通り「出産という罪」について親となる人・親となる可能性がある人は今一度考えて欲しいと思う。

私は今後、親にならないとは言い切れないが、自分が生きていて苦しいから生まれてくる子供には生まれて良かったと思ってもらえる人生にしたいと思う。
また、そう育てる覚悟が出来るまでは親になってはいけないという気持ちもある。

そして今、生きる事に苦しんでいる人には、この「出産という罪」について考えてもらいたい。少しは気持ちがラクになるかも知れないから。