孤独という静かな絶望を抱えて
先の記事で虐待は家庭内における完全犯罪と書いた。
躾の名のもとに、教師や警察ですら不可侵である家庭という名の聖域で、容赦無く虐待が行われる。
その完全犯罪の目撃者は、私の家の場合は祖母と母、弟2人であるが、時として母は父に迎合し、私を庇うどころか火に油を注ぐかのように父に告げ口をする始末であった。
先日、離れて暮らしている次男と話す機会があった。次男も父親に怯えた幼少時代を過ごしたが、話すうちに話が噛み合わなくなってきた。
よくよく話を聞いてみると「今ではほぼ恨みは無い」という。
考えてみれば兄弟の中で、長男の私に対する風当たりが最も強かった。「甲斐性無し」と「長男のくせに」は常にセットの罵倒句であった。
兄弟3人とも同じ地獄の時間を強いられたことは確かだが、大人になった今でも当時の地獄が沸々と思い出され、悔しさで呻吟しているのは私だけのようである。
父親も母親も「子供たちを立派に育て上げた」という満足感で一杯であろう。私は実家に寄り付かないが、父親も母親も「あの子には少し厳しくし過ぎたかな」ぐらいのものであろう。
…冗談じゃ無い。
私は今、こうしているときも苦しい。
未だに幼少期から少年・青年時代のあの地獄を鮮明に覚えているのである。
そして今はその後遺症として、虚無感・倦怠感・空虚感・無意味感・世間とのズレを感じて苦しんでいるのである。
これは私ひとりの問題である。
弟たちとは受けた屈辱と見てきた世界が違うのだ。
同じ地獄の時間を共有してきたとばかり思っていたが、そうではなかった。そのことで更に深い孤独を感じ、苦しくなるのである。
しかしどうにかして、この傷と孤独を癒やす方法は無いのか。ネットで同じ目に遭った人に聞いてもらうのが一番ではないか。
血の繋がった者でも、現実社会の友達でも、恋人でも、配偶者でも、…分からないものは分からない。なぜならその体験をしていないのだから。
ネットには同じ目に遭った「同士」がいる。
しかし私が受けた仕打ちを知るのは、他ならぬ私しかいない。
あなたが受けた仕打ちを知るのは、他ならぬあなたしかいない。
孤独という静かな絶望を抱えながら、自分の心の声をしっかりと聞き、自分にとって最適な行動をとるより他はない。