静かな絶望と苦しみの果てに

機能不全家庭に育つ。子供の頃は怯え、大人になった今は虚無感・空虚感・ 世間とのズレに苦しむ、そんな日々を綴る。

年齢制限が厳しい日本の社会について思うこと

日本の社会は年齢に対してシビアである。何歳までに何をやってという「人生のスケジュール」が厳密に決められている。

それは親が、学校が、先生が、会社が、社会が、そして世間が決めている。
明確に年齢制限がある場合もあれば「空気」で決まっている場合もある。


大学入学に際して浪人は○年まで、留年はもちろんしないに越した事は無いけど、するにしても○年まで…。尚、新卒じゃないと就職が厳しい、というのも日本独特の慣習ではないだろうか?

そして入社後も○○歳までに係長になって、○○歳までに課長になって、と続く。
結婚だって○○歳までにしないと、家は○○歳までに買わないと…。

こうして公私共に雁字搦めのスケジュールが提示されている事に私は疑問と生きづらさとアホらしさを感じるのである。

もちろん結婚や出産、家の購入は早めにすれば年老いてからがラクだし、ローンの返済を考えると目安にすべき年齢はあると思う。

しかし何かに挑戦する事に年齢など関係無い事が多いし、恋愛や結婚だって何歳になっても遅いという事はない。それなのに世間一般で「適齢」とされている年齢を上回ると「いい年こいて」とか「年甲斐も無く」と揶揄されるのである。

このように年齢制限は無駄に人々を怖気づかせ、挑戦する心意気を殺いでいる事が多い。年齢など目安に過ぎないのに、それにとらわれ過ぎて挑戦を諦めるマイナスが生じる。もちろんプラスは生じない。
結果、無難ではあるが詰まらない社会の出来上がりである。保守的な日本の「世間」はそれを望むであろう。
年齢制限ではないが、かつて世間がホリエモンを追放して「秩序」を保ったように。

しかし年齢に関係なくやりたい事はやるべきである。何かに挑戦する事もそうだし、一見幼稚に見える事でも誰に遠慮する事なくやってみればいい。たとえ50歳であろうと、幼少の頃欲しかったカブトムシが欲しければ、ひとりで林に入ってカブトムシをとればいい。

自分が生きたいように生きないと、他人が期待する人生を生きてしまう。
そんな人生に一体何の意味があるのか。

年齢を気にするのも、挑戦しないのも、全て世間=他人の目を意識しての事だと理解する事から始めたい。
そうすれば今までとは違った、もっと自由で活力ある生き方が出来るようになるはずだから。